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[今日の一句……バイト中 昼のカレーが 激流葬]
書くべきものがあると考えるのは傲慢だし幻想に縋っているだけだろう。
書きたいものがなければ、そもそもいまこの居場所に僕は存在していない。
書かれるべきものがあるような気配は、とうに屠った鶏のエサになった。
あるスタンスに従っただけで、別段、自傷癖が発動したわけじゃあない。
ただ、手の甲に火の点いたタバコを押し付けてみれば、痕は水ぶくれになってまだひりひりと痛む。
表皮が引っ張られるような痛みの中で、僕はちょっと考えていた。
痛みが生を実感させる、という言葉は、自傷癖と結合し易く、逆も然り。
けれど鮮烈な痛みの刺激が、身体から意識の覚醒を喚起する……訳ではないような気がする。
痛みが生を実感させるなら、痛み以外は生を実感させない。
前提は世界からの剥離なのだ。本来世界から伝わってくるものが何割か遮断されること。
五感が失われるような瞬間は、事故などで訪れる。
けれど、それが引き伸ばされて延々と続く日常に変わる事態を、想定する人は少ないのか。
五感が何割かカットされている状態で、タバコを吸ったら味がしなかった。
風邪のときのタバコの味とも違って、ただ透明だった。
だからもう一度、手の甲に火種を持っていく。
微かに、痛みを感じている自分を自覚でき、現象が把握できる。それが生の実感か、と思う。
在る、ことを保証するために、狂った痛みは必要なく、むしろそれは、単なる妨げで。
ぎりぎり俯瞰できるぐらいの現象だけが、ふと、僕をここに留めるのか、と思いもする。
こぼれた塩を拾おう。