[徒党と狭間]


 肩書きに固執する態度を忌避し、その人個人をして個人と認めんとするとき、ならば肩書きに固執する個人を認めんやという矛盾がある。そのことに相対すつもりはなく、ただその人が僕の中で愛すべき個人であるかどうかが問題となるのだと開き直る。いつだって熱くなり、逆鱗に触れるような言葉は、大事な人の一部、ときにすべてを否定する言葉だ。だけどそれが、その人の個人たるべき要素から発せられていて、しかもそうやって相容れない存在が他方にもあって、お互いに排斥し合うのなら、僕はどうするべきなのか、ということに思い至る。というよりそういう状況だったりするわけだけども。
 時間に任せてもいい。いずれ風化する。残念ながら優先順位として、両者より守りたい場所があるのは確かであって、郷愁の一部とすることにそんなに僕の胸は痛んでいない。


 だけども……


 雁は群れ、身を守る。鶯は一羽で木々を行き交う。いずれも猟銃の的とはなる。雁のベクトルの途中には、贄となった屍が幾筋も落ちているだろう。鶯のベクトルは、一羽の屍と共に途切れる。どちらがより残酷で、どちらがより美しいのだろう、と思う。
 例えば僕が好む居場所たちには、好みに耽溺する行為者か、同調を目的とする観測者が一人はいて、だから僕は一切の作り物を被らずにそこに居られる。好きか嫌いかを明言しなくてもいい場所は、雁でも鶯でもない。孤独も奔流もない空を飛ぶようなもの。そこを天国と呼んでも差し支えないし、天国より居心地が良い場所と言い切ってもいい。
 単に、悩みなく下された価値設定に、僕は抗おうとしているだけかもしれない。天国を知っているから、居心地の比較で「きって」しまおうとするのかもしれない。
 それは大人の判断か? 若者の判断か? 時流の判断か?
 いや違う。そうやって不特定多数のグループに責任を委託することこそが、そもそも前提に抵触している。どんな判断も、僕自身の判断だ。
 僕が存在している場所で発生する様々な葛藤。その原因が僕自身になかったとしても、判断の結果生じた責任は僕自身が背負わなければならない。理不尽だ、と叫ぶことくらいはしていいと思う。でも、許されるのはそこまで。
 退ける決意、労する決意、弄ぶ決意、許容する決意。決意と呼べなくとも、漫然とある流れの先は、苦楽ともに受け止めるべし、と。
 

 ……ここのところ、居心地の良い空を渡りすぎたのかもしれない。弄ぶ痛みを、懼れてしまっている。

 



[付記・今日気づいたこと(若干放送コードにひっかかる)]

 洋服っていうのは、上半身の露出が激しかったりして、特に女性のそういうのは、眼のやり場に困る場合がありますね(といってもいつ頃からか真顔で直視するようになってむっつりスケベ呼ばわりですが)。で、「洋服って露出されててエロいけど、それよりちゃんと隠してる浴衣の方が想像力かきたてられていいんだ!」と、とある人が言ってたんです。
 でも、浴衣って、ちょっと激しく動いたら、下半身の方が露出されますよね。洋服は上半身の露出があるけど、下半身の(検閲)は絶対見えないわけで、浴衣は通常時はいいかもしれないけれど、上半身も下半身も、下手すりゃおっぴろげですよおっぴろげ。
 ってことに気づいて、浴衣を絶賛するそいつに言ってみたら。


「そんなとこまで再現してある立ち絵なんて見たことない」


 って返してきました。え、ちょ、洋服の露出の話も、エロゲーのことだったんですか、と。
 さすがは自称・二次元マスターです。僕も相当に二次元マスターなつもりでしたが、まだまだ埋没度が足りないのだと自覚しました。無意識に二次元と三次元の狭間を混濁させなきゃならないんですね、わかりま(ry



 って、それっておま……